5年前の東日本大震災、その時私は中学1年生だった話

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存
  • 0
スポンサーリンク

f:id:wakai_ojisan:20160311222807j:plain

5年前の今日「東日本大震災

3階建ての校舎の2階の教室で私はその日最後の授業を受けていました。

理科でちょうど地震に関する所を習った時期でした。

家に帰ったら今日も父親に訳も分からず怒鳴られたり殴られたりするんだろうなぁ..

ご飯作んないとなぁ..

なんて思っていました。天気は曇りで寒くて、まだまだ冬だななんて思ってました。

授業もつまらなくウトウトしていた時、とんでもなく大きい地震が襲ってきました。

耐震工事を翌年に控えたボロボロの校舎はガタガタと揺れて、教室の備品は至る所に落ちて、自分のクラスは静かにしていたけど隣の教室は悲鳴が飛び交っていたのを覚えています。

教室の廊下側に自分の席がありましたが、教室と廊下の間の壁の上にあるガラスが割れるんじゃないかとビクビクしていました。正直死ぬんじゃないかと思ってましたが、死んでも良いやとも思ってました。

地震が一旦収まると、避難訓練と同じようにグラウンドへ避難(グラウンドへの避難は賛否両論あったようですが)

みんな事の重大さに気づき始めて訓練でいつも怒られている私語が全くありませんでした。泣いている女子生徒はたくさん居ました。

外に出ると雪が降るんじゃないかという寒さ。市の防災放送が水道管破裂だのなんだのと大騒ぎで、これはとんでもない事になっているなと感じました。

それから数十分、感覚的には数時間外に居たような気がしていましたが、理科の先生が余震で地割れしたらまずいだろうと提案しグラウンドから体育館へ避難。

体育館は耐震工事を終えていて安心。外よりマシな寒さでした。

程なく私達生徒は帰宅することになりました。

家に帰ると誰もいない。父親はパチンコに行っていたのでしょう。夜まで帰ってこなかったけど、帰ってきて大荒れ。母親がパートから帰ってこれたのは深夜でした。

いわゆる帰宅困難者となっていたようです。

テレビをつけると自分が想像していたよりも大変なことになっていたようでした。

津波原発?街が無くなってる?中1のキャパでは飲み込めなかったのを覚えています。

井戸水を使っていた我が家の水は地震によって数日間濁り、水の確保が大変でした。

ど田舎であった畑には食べ物がありましたし、コンビニもスーパーも近くになかったので買いだめ等が問題になっていたようですがそれも無く。

結局地震のおかげで部活が数日間無くなり、家にいる時間が増えると父親と祖父母から暴力を振るわれる時間が多くなっただけでした。不安を感じていたのか、いつもよりも荒れ方がひどかったのを覚えています。

地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

被災地の復興が一日でも早く進みますように…

スポンサーリンク
広告
広告

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

フォローする

スポンサーリンク
広告